ezohikiの日記

道内五拠点生活

コシャマイン終焉の地②

住所は函館市志海苔町ですが志苔館と表記されます
昭和の大合併前は銭亀沢村
実際に近くで古銭が入った瓶が出土しています
時は令和‥平成の大合併ですら遠い記憶なのに
昭和の大合併前の市町村名なんてもう誰も‥

前回に続き、コシャマイン蜂起ゆかりの地を紹介します。

室町期、津軽海峡から日本海に沿って「道南12館」と呼ばれる小さな城(砦?)が和人豪族によって築造されました。

函館という地名の由来となった箱館(ウスケシ館)もその1つです。

函館市街の東にあったもう1つの館、志苔館付近の集落で事件が勃発。和人の鍛冶屋が客であるアイヌの少年と小刀の出来をめぐって口論、逆上した鍛冶屋が少年を殺害してしまいました。1456年のことです。

これに日頃から和人に対する不満を募らせていたアイヌ民族が暴発、東部の首長コシャマインを中心に集結したアイヌ軍は12館のうち花沢館(現上ノ国町)・茂別館(現北斗市)を除く10館を陥落させました。

ここで言う「東部」とは道東ではなく道南の東部みたいですが(この時代、道南の出来事が道東までいち早く伝わるとも思えない‥)亀田半島なのか噴火湾なのか、はっきりしません。江戸前期のシャクシャインは本拠地が静内で、なおかつ蜂起までの経緯が分かっているのに対し、精度の差が歴然です。やはり600年前ともなると和人側から見て黎明期、伝説の域の話です。

松前城は春の桜だけではなくアジサイの名所でもあります

何とか持ちこたえていた花沢館に客将として居候していた武田信廣(松前家始祖)はアイヌ軍を七重浜に誘き寄せ、強弓をもってコシャマイン親子を射殺。アイヌ軍は総崩れとなったそうです。

道南12館の1つ大館は松前城のある福山台地の北
徳山大神宮の奥にありました
江戸後期のゴロウニン事件で
捕らわれたゴロウニンが幽閉されていた牢獄跡も
隣接してますが🐻が出るので近寄れません

常宿の温泉の夕食はもちろん完食🈵
(注)オヒツごと食べた訳でありません🍚
また大メシ食らいが来た!と思われてるかも

コシャマインを討ち取り松前家始祖となった武田信廣
若狭武田氏の出自と言われてますが多くの戦国武将と同様
眉唾ものです(松前家の家紋は武田菱)

その後も度々、和人とアイヌの衝突が頻発。

武田信廣は花沢館主の蠣崎氏を継ぎ、大館(現松前町)に移った蠣崎氏は和人勢力をまとめてゆきます。

信廣の曾孫にあたる季廣の代になって漸くアイヌ側との和平が実現。基盤を安定させた蠣崎氏は季廣の子、慶廣の代に近世大名として幕藩体制に組み込まれたのです。

へのへのもへじじゃありません♪
花沢館とともに陥落を免れた茂別館跡は
北斗市茂辺地の矢不来天満宮に所在

松前で1泊2日の草刈りを終え、再び久根別駅まで戻りました。ここから函館市街の反対側、下海岸の方まで一気にチャリを走らせます。明るいうちに、目的地の志苔館跡へ!

左上の久根別駅から右下の志苔館跡まで17㎞
ちょうど中間地点にある実家を通り越します

万代跨線橋を下るとガス会社前
かつては3方面(湯の川・五稜郭駅函館駅)への
路面電車が交わる交差点でした

湯の川温泉街を流れる鮫川
昭和の時代は悪臭漂うドブ川でしたが
今はすっかりきれいになって鴨も見られます

志苔館跡とうちゃこ
散策できるよう整備されてます
隣接する函館空港はS51年ミグ25亡命事件が発生
回収に来たアメリカの巨大輸送機ギャラクシーを
航路の真下にある実家のベランダから見てました

眼下は志海苔浜と漁港
小学校の遠足でここまで歩いた記憶があります
道内では珍しく瓦屋根の民家が多い趣のある漁村地域

今回も日没時、感傷に浸ってみました。