前回に続き、コシャマイン蜂起ゆかりの地を紹介します。
室町期、津軽海峡から日本海に沿って「道南12館」と呼ばれる小さな城(砦?)が和人豪族によって築造されました。
函館という地名の由来となった箱館(ウスケシ館)もその1つです。
函館市街の東にあったもう1つの館、志苔館付近の集落で事件が勃発。和人の鍛冶屋が客であるアイヌの少年と小刀の出来をめぐって口論、逆上した鍛冶屋が少年を殺害してしまいました。1456年のことです。
これに日頃から和人に対する不満を募らせていたアイヌ民族が暴発、東部の首長コシャマインを中心に集結したアイヌ軍は12館のうち花沢館(現上ノ国町)・茂別館(現北斗市)を除く10館を陥落させました。
ここで言う「東部」とは道東ではなく道南の東部みたいですが(この時代、道南の出来事が道東までいち早く伝わるとも思えない‥)亀田半島なのか噴火湾なのか、はっきりしません。江戸前期のシャクシャインは本拠地が静内で、なおかつ蜂起までの経緯が分かっているのに対し、精度の差が歴然です。やはり600年前ともなると和人側から見て黎明期、伝説の域の話です。
何とか持ちこたえていた花沢館に客将として居候していた武田信廣(松前家始祖)はアイヌ軍を七重浜に誘き寄せ、強弓をもってコシャマイン親子を射殺。アイヌ軍は総崩れとなったそうです。
その後も度々、和人とアイヌの衝突が頻発。
武田信廣は花沢館主の蠣崎氏を継ぎ、大館(現松前町)に移った蠣崎氏は和人勢力をまとめてゆきます。
信廣の曾孫にあたる季廣の代になって漸くアイヌ側との和平が実現。基盤を安定させた蠣崎氏は季廣の子、慶廣の代に近世大名として幕藩体制に組み込まれたのです。
松前で1泊2日の草刈りを終え、再び久根別駅まで戻りました。ここから函館市街の反対側、下海岸の方まで一気にチャリを走らせます。明るいうちに、目的地の志苔館跡へ!
今回も日没時、感傷に浸ってみました。