沿岸バスの旅‥Go To 留萌

留萌港

もうすぐ海開きです。

道内の海水浴場は暖流が北上する日本海に集中しており、太平洋やオホーツクの海水浴場はしゃっこすぎて海水浴どころじゃないです。某食堂の納豆定食(納豆抜き)みたいな?日高管内にも数ヶ所ありますが、誰も泳ぎません。

先週は旭川へ帰宅、実証実験やらで「市内発または着の路線バスが無料」の日でした。折角なので日帰り可能な市外便(富良野・名寄・上川・深川etc.)の中から、ゆかりのある留萌行きを選びました。

次女は予定があったため、メンバーは妻と長男と私。普段は一緒に行動しない、珍しい組合せです。

海開き間近の懐かしい留萌へ、路線バスの旅‥蛭子さん役は誰?

運行は沿岸バス、片道2h。普段から帰省・帰宅で連続10hとか都市間バスに乗ってる自分にとってはアッという間。

 

留萌在住はH10からの5年間でした。

結婚4年目にして初めての転勤、まだ働き方改革なんて概念もなく連日深夜帰宅のブラック職場。しかも事務所が13㎞先の隣町にあり、冬の日本海は荒れに荒れ通勤もゆるくなかったっけ‥待望の第1子、長女が生まれたのも留萌。当時は二人とも28-33歳、若さで何とか乗り切った感じです。

 

留萌の語源ルルモッペ(潮の静かなところ)をそのまま町名にした潮静団地はやや内陸にあります。住んでいた宿舎には寄れませんでしたが、愛犬と散歩した留萌川堤防や借りていた市民農園が車窓越しに見えると、思い出が溢れてきます。元々水田だった農園の地主のお婆ちゃん、健在ならもう百歳近いかな。

中心市街は更に寂れ、記憶にあった店は殆ど「糸偏に冬」、海沿いの駅も消え廃線跡だけが残ります。

変わらないのは増毛連山の暑寒別岳と、礼受の風車群。

道北最大の海水浴場・ゴールデンビーチは間もなく開業です。

冬は鉛色の空にケアラシや波の華が舞う怒涛‥夏は温暖で静かな日本海ツンデレな気候です。

夏は留萌、冬は日高というイイトコ取りの田舎暮らしが理想かも。

数の子生産日本一 留萌のゆるキャラKAZUMOちゃん 誰かに似てるなっしー?

アポイ登山

ようやく日平均気温が15℃を越えるようになり、ウグイスやキジバトカッコウの声も心なしか楽しげに聞こえます。

アマガエルやエゾハルゼミも盛んに鳴き出し、20℃に満たなくても充分に暑気を感じさせる日高の夏です。

先週末は2年ぶりの職場レク、アポイ登山がありました。

一昨年は「日高にいる間に1回は登らねば」と参加したものの、結構辛かったのでもういいや、と思ったはずなのですが‥酉年のせいか処分した鶏のタタリなのか、トリアタマ全開で懲りずにまた登ることにしました。いつもは馬の行事を最優先させるのを常としていますが、今回はJRA育成牧場で開催される夏季町民乗馬大会を見送っての参加。ゴメンなさい、秋季大会で頑張ります。

エゾ梅雨気味の日が続いていましたが、当日はまずまずの天気。

気温も前回よりずっと涼しく、快適な登山日和です。

とはいえ、素人&50代にとって決して楽な山ではありません。

5合目は雲海の中。森林地帯はここまで、キタゴヨウの植生はしばらく続きますが、足元はガレ場に変わり、やがてハイマツ帯へと移行します。

途中、ヤマツツジヒオウギアヤメ、固有種のアポイカンバを目にします。

ちょうどヒメチャマダラセセリ(固有種)の調査隊が入山していました。食草のキンロバイも咲いてます。

カンラン岩がゴロゴロする尾根を通過。雲がなければ遥か左手方向に日高山脈の脊梁が連なるのですが‥

山頂はスカイツリー(行ったことないけど)より若干高いEL810m。

ハイマツ帯の上部にダケカンバ帯がある、不思議な逆転現象。

こんな所でもエゾハルゼミが鳴いていました。

下山する頃には雲海も消え、冬島・平宇そして様似の町が望めました。

ミニ函館山の様な、陸繋島のエンルム岬もはっきり見えます。

 

山裾を洗うせせらぎに耳を澄ませばしみじみと山の息吹きが思われる

 

こんな合唱曲があったと思いますが、冬島川・ポンサヌシベツ川の瀬音に癒され、無事下山しました。

海霧

世間的には夏が始まるようで「風に海の匂いが混じって来た」とか言う某マックのCMが頻繁に流れていますが、ファストフード店のある隣町まで行くには1日10往復足らずの路線バスで片道1時間半、ママチャリでは距離的にちょっと‥たまにはケ○タとかモ○とか食べたくなるのに、旭川へ帰る日までおあずけです。

でも「海の匂い」ってフレーズには心動かされます。

転勤族なので家族の出身地はバラバラ。妻と長男・次女は生まれも育ちも内陸、辛うじて長女が日本海沿岸の留萌で生まれた子ですが、物心ついた頃は十勝の大平原にいたので「海の街」に対する思い入れはなさそう‥皆、浦河や函館へ遊びに来ると水産加工場の魚の脂の匂いに拒絶反応を示し、海鳴りを怖がり、街中を飛ぶウミネコの姿をもの珍しげに眺めます。

17年ぶりの沿岸警備隊となった日高赴任。潮騒と磯の香に癒されまくりです。

日高沿岸の「夏の風物詩」といえばこれ、海霧(ジリ)です。

襟裳沖を寒流の親潮が流れているため、南東の風は冷され霧を伴って海からジリジリと押し寄せます。いわゆるヤマセと呼ばれる冷たい季節風で、緯度がほぼ同じ道南と比べても夏はかなりの低温になります。

道南の松前旭川の北100㎞に位置する美深(妻の出身地)との月平均気温比較

作物栽培には厳しい反面、国内シェア8割を占めるのが軽種馬生産。

冬が温暖で楽な分、この季節の鬱陶しさは受忍の範疇なのかも知れません。

まもなく夏至ですが、この2ケ月は日がな1日10℃前後、季節が進展する気が全くしませんでした。

妻からは決まってこの時期「こっち(旭川)の熱気をあげよう、プープー。」などと子供じみたメールが届きます。震え上がる程の天然冷気をミスト付きで送り返してやりたいところですが‥

宿舎のベランダも、まるで石勝高原(トマムリゾート)の雲海テラスみたい(行ったことないけど)、ケムール人でも出てきそう。

猛暑にウンザリしてる方、まずは夏の間だけのプチ移住をお奨めします。(要防寒)

エゾヒキガエルのはなし②

路面電車の終点・谷地頭(ヤチガシラ)。

函館山の南東麓に位置し、ぐるりと杜に囲まれた趣のある閑静な住宅街です。

地域全体がスリ鉢状の地形を成しており、NHKブラタモリ」でも謎の凹地として紹介されましたが、火口の跡ともいわれています。

戦前まで、鉢底にあたる函館八幡宮の参道下には天然の池沼(カルデラ?)が存在し、エゾヒキガエルの一大繁殖池となっていました。

私の曾祖父は明治~大正の世、市内にあった高砂小で訓導をしていたのですが、定年後は神職の資格を取得し八幡宮権禰宜を務めました。

当時より八幡宮の勾玉池でもエゾヒキの産卵(ヒキガエルの産卵行動は「蛙合戦」と呼ばれる)が見られ、曾祖父はこの蛙を高砂小へ理科の教材として提供していたそうです。昭和ヒトケタの頃の話です。

北海道の在来種であるエゾアカガエルは元々、函館山に生息していませんでした。これは函館山で長年フィールドワークを続けてきた故S先生による調査結果で、私も昭和の時代、函館山でエゾアカを見た記憶が一切ございません。

一見、どうして??ですが、火山島だった函館山が本道とトンボロ(陸繋砂州)で繋がった時期や市街地で隔絶された時期、その限られた期間に山間部を好むエゾアカが地峡となった砂州を渡り分布を広げれたのかどうか‥考えてみればエゾアカが函館山に進出していないのは決して不自然な事象ではないと思われます。(しかしながら‥現在は何故か、いるのです。この不可解な状況は後ほど考察して参ります。)

つまり、競合する在来種がいなかったこの一帯で、エゾヒキはニッチ(生態的地位)の獲得に成功したと言えます。

谷地頭は「蛙の里」として市民に認知されるようになり、蛙合戦は函館山の「春の風物詩」としてNHK「Wild Hokkaido!(2017年)」でも取り上げられています。

15世紀半ば和人豪族・河野政通により創建された函館八幡宮と勾玉池(右)

砂山

臥牛山(函館山)と共に、市内の学校で校歌によく登場する地名が「宇賀の浦」です。

「巴の港」と称される天然の良港・函館港の反対側、外海(津軽海峡)に面した海岸で、大森浜とも呼びますが、かつては砂山とか高盛山とか言われる砂丘があったそうです。上磯(今の北斗市)にあるセメント工場が細骨材として砂を採掘し、戦後にはすっかり消えてしまいました。

 

砂山へいって のぼって見たら 昔の俤がかすかに 残ってるに過ぎないが やっぱり嬉しかった 啄木がその昔歌った砂山も コンクリートの 材料にはこばれて 鮭の頭のような かっこうになっていた(小山内龍 著「昆虫放談」 ふるさとの人と自然 より)

私の通っていた中学校から「見晴かす宇賀の浦辺」まで南へ1㎞足らず、現在は公園として整備され、石川啄木の座像と歌碑が設置されています。

 

潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや

 

ちょうど見頃だったので一枚。花の白い品種もあり、甘いローズの香りに包まれます。同じく海浜に適応した植物・ハマヒルガオの淡いピンクの花も見つけました。

啄木が砂山で詠んだといわれる、余りに有名な代表作はこの二首。

 

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日

 

大森浜は磯ではなく浜であり砂鉄を含んだ黒砂、イソガニとかイワガニは見かけない‥いやいや、理系的発想は野暮ですね‥

この砂浜、西は立待岬(住吉浜)から東は湯の川温泉街のあたりまで、その向こうは根崎・志海苔・日浦といった、下海岸と呼ばれる岩礁地帯が亀田半島先端の恵山岬まで続きます。(写真の右端は途中にある汐首岬)

一見、海水浴に最適なビーチにも見えますが、潮流が凄まじく、また、急に深くなるため、なまら危険です。高校生の頃に友人たちと泳ぎに行ったりしてましたが、かなり無謀な行為だったと反省。

エゾヒキガエルのはなし①

函館山山麓を散策していると、地元のロータリークラブが設置したロードキル注意喚起の標識を見かけます。

この標識に示されている「エゾヒキガエル」とは、古くから函館山に土着していた国内外来種アズマヒキガエルの通称です。かつて私も保全活動に係わっておりました。

このエゾヒキガエル(アズマヒキガエル函館山個体群)が歩んできた歴史と現状について、何回かに分け書き残しておきたいと思います。

これは41年前、函館市内の高校で生物教諭として教鞭を執る傍ら、南北海道自然保護協会の理事を務めていた父が、ある科学誌に寄稿した記事です。

この情報が広島大学両生類研究グループの目に留まり、サンプル提供の依頼があったため、私が飼育していた成体3頭を送りました。解析(電気泳動法)の結果、函館山の個体群は北東北ではなく関東の個体群と相関がある、と判明しました。

つまり、ルーツは関東で人為的に持ち込まれた個体の末裔、ということになります。

また、函館山に生息するヒキガエルの存在が学会で認知されたのは1912年(T元年)とされていますが、文献を更に遡ると‥

 

「顕微鏡を以て蝦蟇の血脈循環の状を天覧あらせらる(原文ママ)」明治天皇御巡幸記 1876年(M9年)7月16日 函館病院における記述

 

東北御幸の際、函館に立ち寄られた明治天皇がなんと自らエゾヒキガエルの観察をされていた、という記録がありました。

明治初頭、容易に検体として採取されていたことを勘案すると、既に定着して久しい状態だったと考えるのが自然です。

よって、このカエルの移入時期は少なくとも箱館が開港された幕末、可能性としては松前藩の交易地だった江戸期、あるいは箱館が築かれた室町期まで遡るかもしれません。

江戸期に北前船で行商にやって来たガマの油売りがパフォーマンス用に持ち込んだ?はたまた箱館戦争旧幕府軍に従軍した医師・高松凌雲が研究のため飼育していた?これらは父の憶測であくまで空想の域、確かめる術はありません。

仰ぐ臥牛の峰 美しく(駒場小 校歌の一節)

港街の函館市は いつ来ても 潮風に油がまざったような 香りをただよわしていた すべてが雑然としたこの市街は かつての大火災後 一層雑然さを加えて来たようだ それにしても なつかしいのは 函館山の姿である この山を眺めて 初めて故郷らしい 気持ちになった(小山内龍 著「昆虫放談」 採集は馬車にのって より S15年夏の記述)

 

函館山は臥牛山とも呼ばれる陸繋島で、市街地のどこからでも見らさるマチのシンボルであり、市民にとって心の拠り所にもなっています。

頂上から眺める「100万ドルの夜景」はあまりに有名ですが、実は独特の変遷を辿った里山でもあります。

寛政12年(1800年蝦夷島奇観 より
  • 約100万年前(第四紀洪積世)火山島として成立、約5千年前(縄文中期)堆積したトンボロにより本道の亀田半島と繋がる。
  • 15世紀になると和人豪族によりウスケシ館(箱館)が築かれるが、コシャマインの蜂起により陥落、荒廃。
  • 江戸期には松前藩の交易港「蝦夷三湊」の1つとして発展、この頃からスギ等の植林が行われる。
  • 明治以降、海峡監視と港湾防衛のため津軽要塞が建造される。また、市街の拡大に伴い緑の回廊(コリドー)が遮断、本道との生物の往来が制約されるようになる。
  • 戦後、公園緑地として解放されるも乱開発による生態系破壊が懸念され、S40年代には周遊道路の建設中止を求める市民運動が起こる。

S50年に凍結となった周遊道路ですが、当時、南北海道自然保護協会の一員だった父も大きく関わっておりました。

スギ木立とクスノキ科の低木オオバクロモジ。

スギは国内外来種ですが、荘厳な杜を形成しています。

園芸品種フイリアオキの実生。

オオバクロモジ同様、鳥によって種子が運ばれたと思われますが、親は内地もしくは市内に植えられていた庭木でしょう。この場合、自然分布と見なすのか移入と見なすのか微妙なところ‥

在来種・外来種の区分が曖昧で無意味に思える一例です。