霜にあたり甘く食べ頃です
今朝は浦河でも霜が降り氷も張りました。やはり旭川より3~4週ほど遅い冬の訪れです。
前回の続き、手前ミソの歴史談義です。
源平合戦で那須一族は長男~九男が平家に、十男以下の弟たち(与一や椎葉村の平家落人伝説に登場する大八郎ら)が源氏に付きます。
やがて平家に与した大庭景親は捕らえられ斬首。源氏方の兄・景義は非情にも助命嘆願しなかったそうです😱「鎌倉殿の13人」でも景親の最後が描かれてました。
カリン樹皮の🐭カジカジ対策
対照的に那須与一は兄たちを助け自分の領地を分け与えたとか😭我が先祖(といっても28代前と仮定すると血量は2億7千万分の1)の次郎は現在の栃木県大田原市佐久山の地を治めます。行ったことないけど。
サティ?でなくてポスフール?いやイオンか‥
店名が頻繁に変わっても昔の名前が出てきます
このイチョウだけは昔のまま
時代は流れ戦国の世。
時の当主は娘婿の裏切りに合い、酔い潰されあっけなく寝首をかかれます。一族郎党は隣国の常陸へ逃れ、戦国大名・佐竹氏の庇護を求めました。
やがて迎える関ヶ原。どっち付かずだった佐竹氏は秋田へ移封、ご先祖たちもお供します。
どういう経緯か不明ですが、この頃は鉱山採掘の技術集団になっていたとのこと。東北各地の山里へ散り、ある一団は霊峰・早池峰山の西麓、現在の岩手県紫波町赤沢の地へ定着しました。行ったことないけど。
盛岡藩南部氏は20万石。
とは言え小氷期とされる江戸時代において東北北部は稲作の北限地帯です。検地上は20万石でも反収はかなり低かったと想像に難くありません。実質10万石くらいだったと思われます。藩が格式を重んじる余り見栄を張ったため、領民は度重なる冷害、飢饉に苦しみました。
そんな領内にあって、紫波赤沢のご先祖たちは自営農として生き抜いたようです。
ハルニレに混じってオヒョウもあったはずだが
はて?どの木だったか‥
そして幕末。
盛岡藩は旧幕府側に付いて敗れ、減封という懲罰を受けます。それにしても平家といい旧幕府といい、どうして負ける方に付くのでしょう。でも自分のアンチ好き・判官贔屓はそのせい?我が家も減封の煽りを受け、あの家具屋さんと‥
続きはまたいずれ。
こういうのポタリングって言うらしい
思い付きで石狩川を遡り秋月橋を通過
実はかつてチャリで通った通勤コース
もちろん汽車です!キシャ!
ナツツバキ(シャラノキ)・アズキナシ(カタスギ)