たしか中学の国語の教科書に掲載されていた単元だったと思いますが、旭川に関する一節がありました。
忘却の彼方にあったこの記憶について、先日、散歩中にあるモニュメントを見つけ、未だ行ったことのない奥地の街に思いを馳せていた当時がよみがえりました。
明治の頃、旭川において上川離宮を設置する計画があり、御料・聖和などの地名はその名残だそうです。
いくつもの川で仕切られた市街は神居・神楽・永山といったエリアに区分され、石狩川本流の右岸一帯は近文と呼ばれてます。
重度の先天性感音難聴である長男を聾学校に通わせるため中古物件を探したことが、この地に自宅を構えるきっかけでした。
障害は不便であっても不幸ではない‥障害児の親となって初めて気付けたことですが、まだまだ知らないことばかり。
聾という字には侮蔑的意味合いを含むそうで、校名変更が検討された時期もありました。
ある児童が通学中に心ない言葉を浴びせられたことがあり、悔し泣きする親御さんの話をただ黙って聴くほかありませんでした。
偶然ですが亡母も終戦直後の一時、この界隈に住んでいました。
軍都・旭川は日露戦争や太平洋戦争での玉砕で知られる第七師団(北鎮部隊)を中心に発展した街です。
近文に指令部が置かれたことにより、居住していたアイヌ民族の生活を圧迫。土地をめぐる問題は今なお燻っているとのことです。
警官だった母方の祖父は小樽・羽幌など道内を転々とし、旭川では旧陸軍に隣接する官舎にいました。
母が通っていた小学校のクラスに二人、アイヌの子がいて、貧しい身なりのため仲間外れ(どの程度かは分かりません)になっていたそうです。可哀想だったけど何もしてあげられなかった、と後年よく話していました。
人種差別や障害者への偏見、いじめ‥自分も問題の本質をきちんと理解している訳ではありません。でも無知でいることが一番良くない、というのが環境問題とも共通する気がしてなりません。